沖縄フィールドワークの一日の様子

今日は11月12日の水曜日です。平和学習の二日目となります。頑張ろう!

朝起きたら、ゼミの皆さんもきっと嬉しく思ったのがその久しぶりのいい天気だった。沖縄の観光の様子もついに見られた。良かったです。

9時には、バスに乗って、いい一日が始まる。今日のガイドもアキちゃんとアキ子ちゃんだ。よろしくお願いします。

最初のスポットは米軍基地の問題をめぐって全国的に有名になった辺野古だ。どんな町もこのような形で名声を得たくないだろう。説明が始まる前に、すぐに気付くのは辺野古の素晴らしい海だ。そして、天気がよかったおかげで、あの綺麗な景色の中で米軍基地を拡大することはどんな勿体無いかすぐに分かる。

米軍基地との「境界線」

ジュゴンが住むこの美しい海に米軍基地を作る計画に反対し、浜辺では座り込み運動が続けられている。座り込み運動の浦島悦子さんにお話を伺った。辺野古は、沖縄に存在する南北格差・東西格差のなかの周辺地域として基地問題を抱え込まされてきた。政治に翻弄されてきた辺野古では基地に反対することが非常に困難であったのだ。その辺野古の住民が住民投票や市長選を通してはっきりと「基地ノー」の意思表示をしたことの意味は大きい。そのなかで、出身が辺野古ではない浦島さんご自身は、海や山に対して自らが持つ愛着・感謝の気持ちを確認し、生活の基盤となるこの海や山を自分の孫の代までも大切にしたいという思いで「基地ノー」の意思を固くしてきた。(柏崎加筆個所

ノーって分かるの?

説明を聞いてから、浦島さんを連れて現在の米軍基地の様子を見に行った。米軍基地と言うよりも境界線にいったと言うほうが正しいかもしれない。目の前にあったのが様々な色のリボン付きの格子だった。近づけば近づくほど、リボンに米軍へのメッセジーが書かれていることが分かる。

私たちも自分で作ったリボンを掛けた。私の場合は「Go back home and enjoy your family」というメッセージーだった。基地が欲しくないことを伝えるの他にアメリカの軍人もきっと辺野古よりも自分の家族がいる故郷に暮らしたいだろうと言う思いを込めて書いた物だ。

Message d'une Bretonne aux soldats américains ...

残念なことに、米軍の当局がだんだんそのリボンを迷惑に思い、来週から残っているリボンを取って捨てることにしたそうだ。

バスで帰ろうとしたら、昼ごはんを売っていた女性に会い、500円で三種類のサンドイッチが貰う。安くて美味しそうな昼ごはん、後でそれを食べると、どんなにいいチョイスか分かった!私とフレデリックさんの二人のフランス人が満足したぐらいの美味しいパンだった。どうしてこのような片田舎に東京でも見つけにくいような美味しいパンがあるか不思議だけどね。。。

次の目的地は嘉手納基地だ。嘉手納基地は前の辺野古米軍基地と違って、住民の土地に建設されたものではなく、もともと日本米軍の基地だった。戦後、当然のようにアメリカに占領された。米軍基地をめぐる問題について、あき子さんが良く指摘したことが騒音公害だった。夜には航空機が出発しないことになっているものの、米軍の人たちは規則をよく破っているそうだ。

私たちはその夜の様子を見られなかったのだが、基地の横に立っていた15分のうちに、何回も何回も航空機の出発の騒音を聞いた。あき子さんが「touch and go」という訓練の説明をしていた同時に、目の前で行われていたことは皆に大きい影響を与えただろう。その時に、「本当だ!基地は本当にこんな物だ」と思った。その「touch and go」という訓練は航空機が着陸してから、もう一度、離陸することから成り立っている。結果は毎10分のうに5回以上同じ航空機の離陸の騒音を聞くと言うことだ。私たちもその経験をした。ただし、私たちがいた場所は滑走路の横にあるため、一番騒がしいところではなかったそうだ。滑走路の先端に住んでいる住民にはもっと騒がしいそうで、毎日が苦労だ。テレビを見ていたら、何も聞こえなくなる。友達と話していたら、相手の言うことを口の動きによって想像するしかなくなる。それを毎2分に一回くらい行うため、毎日の生活にはどのぐらいの面倒か想像できる。

Et de 1...

Et de 2...

時間が少なかったため、基地のそばにある資料館に行けなかったが、十分状況を理解できたと思う。

次の目的地に向かっていた時に、周りの様子を見たら、数多くのYナンバープレートがあった。Yナンバープレートとういのは米軍の人たちの特別なナンバープレートだ。車の運転手の姿を見てみたら、半分は米軍の制服を着ていた男性で、その他はアメリカ人ぽい女性達だった。軍人の妻なのではないかと思った。

その様子は何キロもすっと続けた。そして、英語で書いている店の名前と情報などでアメリカ人の存在を感じられる。よく覚えているのがドコモの店のショーウィンドーに貼っていた「We always welcome English speakers」と言う大きな広告だった。

もうちょっとバスで進んだら、ある所には道路の両側に米軍基地があって、あまりにも変な感じがする。有刺鉄線に取り込まれているかのようだ。それを経験して、沖縄はまだ「戦後O年」にあることがわかる。その米軍の存在はいつ終わるのだろうか?

三番目のスポットはチビチリガマという「集団自決(強制集団死)」が行われたガマである。そのガマに避難した住民140名中83名も自決した。自決した避難者中の6割が12歳以下の子ども達だった。どうして降伏するよりも自分の命と親戚の命を取ることにしたのだろうか?それはあまりにも難しい質問であり、簡単に答えられない。しかし、一つの大きな理由といえば、そのガマに避難していた従軍看護婦と元日本兵がいたからであろう。彼達の共通点は日本の侵略戦争に参加し、日本兵に行われた悲惨を経験したことだ。その悲惨を住民に語って、アメリカ兵が鬼畜であることを説得したせいで多くの住民達がアメリカ軍に捕まるよりも自分の手で死んだほうがましだと思うようになったわけだ。

その集団自決を生き延びた人々は38年間真相を誰にも言わすに、黙秘した。ガマに行われた惨事を説明したくても、言葉にできないし、自分の子どもを殺した母親の話は伝えるのがあまりにも苦しいなどの理由で読谷村の秘密になっていた。

1983年に経験者が話し始めて、真相が明らかになった。

ガマのほうに着いたら、最初に気付くのが大きなモニュメントだ。二階のモニュメントで、一階は壁で囲まれており、あまり像の姿をよく見られない。しかし、それはモニュメントが初めて作られた時から姿が変わっている。「日の丸焼き捨て事件」で極右の人たちがチビチリガマのモニュメントを壊したことで、読谷村の住民達が大きい衝撃を受け、戦争に悲惨な集団死に命を落とした親戚がもう一度殺されたようだった。それ以来、ガマに入ることが禁止されている。私達も外からのガマの様子しか見られなかったが、その禁止によってもっと戦争と強制集団死に関する苦しみを良く感じられないなのではないかとと思う。

Cave où se déroula un "suicide" collectif peu avant la défaite japonaise - Okinawa

チビチリガマを見物してから、もう一つのガマに向かう。前のガマと違って、シムクガマには死傷者一人も出すことがなく、皆アメリカ軍の収容所へ保護された。なぜかと言うと、今回の場合は元日本兵の一人がいなかった一方で、ハワイから帰ってきた二人の男性がいたからである。その二人はもちろん英語を話すことができて、米兵とコミュニケーションをとることができた。そのおかげでシムクガマに避難した約1000名が自決へのプレーシャをあまり受けなかった上、米兵達、その相手と話せることが出来る人がいることで、ちょっとでも安心できたのかもしれない。外国に留学している私はその話を聞いて感動した。やはり、違う文化の人々の間に橋を架けられる人は大変大事てあることを分かった。特に、戦争のような相手を信頼しにくい時には。

シムクガマの見物で平和学習が終わる。沖縄国際大学の皆さんは一所懸命資料を作ったり、説明したりしてくださったおかげで、大変勉強になりました。ありがとうございます。

これから第5回世界のウチナーチュ大会が始まる。

私たちは世界のウチナーチュ大会の参加者のパレードが行っている国際通りへ向かう。自由に好きな参加者と話したり、世界の踊りを見たり、世界の音楽を聴いたりすることで、元沖縄出身だった多くの移住者の様子を味わえる。アメリカ、ハワイ、アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、ペルー、東南アジアなどから来た参加者の元気さと暖かさで祝い事の雰囲気を感じる。

フランスから来た人もいた。ある女性と話しかけたら、彼女が移住者の一世で、勉強のためにフランスに来たということが分かった。私がブルターニュ人であることを説明したら、「あ、そうですか?実は私はレンヌでブルターニュ語を勉強したよ。フランスの地域的な言語を学ぶためにフランスに留学したんだ。」と彼女は答えた。

。。。やはり、世界は狭いんだよね!

第5回世界ウチナーチュ大会の最初のいい印象だった。 : )

2 réponses à “沖縄フィールドワークの一日の様子

  1. C’est quand même drôle de voir les Japonais traduire les Etats-Unis en Pays du riz « 米国” 😉

    • Oui, en effet ! J’ai vérifié sur le net et voici la 1ère page sur laqelle je suis tombée : http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210897637 … Apparemment tu n’es pas la seule à te poser la question !
      Il semblerait que les Japonais nommaient les Américains « meriken » au début de l’époque Meiji. Encore peu habitués à traduire les mots étrangers en katakanas, ils utilisaient les kanjis « 米利堅 » afin que la prononciation corresponde à la lecture (un peu comme font les Chinois actuellement). Le premier kanji « 米 » est resté ! Voilà pour l’info ^^

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